解説!行基さん全国ゆかりの地

ほぼ日本全国に分布している

行基さんゆかりの地(寺院を含む)について

行基さんに所縁(ユカリ)のある地はほぼ日本全国に伝わっており、行基菩薩を開祖と称される寺院に絞ってみても、ほぼ全国に分布しています。

例えば1998年に挙行された「行基菩薩千二百五十年御遠忌法要」の折にとりまとめられた『行基菩薩ゆかりの寺院』をみると、実に600を超える寺院がリストアップされています。その分布をみると、北は青森・秋田の両県、南は熊本・宮崎の両県までの広い範囲に立地しており、行基さん達が活躍された奈良時代の朝廷の版図にほぼ重なるようです。

ところが行基の事業実績を今に伝える唯一の書である『行基年譜』(安元元年(1175)泉高父編纂)をみると、行基さん達の活動舞台は畿内(キダイ;当時の行政単位の一つで、大和国・山背国・河内国・摂津国・和泉国からなる範囲)に限られています。

行基年譜が伝える内容は、正史である続日本紀によっても裏打ちされています。行基さんが没された天平勝宝元年(749)二月二日条において「大僧正行基和尚遷化、・・・、留止之処、皆建道場。其畿内凡四十九処、諸道亦往々而在。・・・」とするように、畿内において49カ所の道場を建立したと明記しています。まさに『行基年譜』の伝える内容と一致しており、行基さん達の活動舞台は畿内に限られていたようです。

奈良時代の「GNP(国民総生産)倍増計画」

ここで注目されるのは、諸道(畿内以外、七道諸国)においても所々に建立したと続日本紀が伝えることです。行基さんの生前においても畿内を主体にしつつも七道諸国にも手を伸ばし始めていた様子がうかがえます。きわめて興味深い一文ですね。

行基さん達が活躍した時代は、養老六年(722)の「良田一百万町歩開墾計画」と翌七年成立の「三世一身法」を受けて、官民が一体となって良田(安定した水源をもつ水田)の開墾に向けて動き出した時代に相当します。

一百万町歩開墾計画といえば、当時の田積が多く見積もっても90万町歩であることを考えると、「良田倍増計画」とでも呼ぶべき大計画であり、当時の主要産業がほぼ水田耕作であることを勘案すれば、「GNP(国民総生産)倍増計画」ともいえましょう。一方、三世一身法は新たな水資源を開発した場合は三世(子・孫・曾孫)、旧来の水資源を用いる場合には一身、の私有を認めるもので、公地公民制に風穴を開ける法律であります。律令制の根幹にかかわる改変であるだけに当時の朝廷内にも大議論があったに違いありません。

まさに国家の命運をかけて大躍進に向けて動き出した、血沸き肉躍る時代でありました。そんな背景の下、行基の没後も弟子等は行基さんの下で培われた力をもとに、全国に活動の舞台を広げたに違いありません。

その結果が全国に伝わる行基菩薩を開祖とする寺院の存在と考えています。その実態を解明する第一歩として、関心をお持ちの皆さまのご参加を頂きつつ、行基さんにゆかりの寺院を先ずはSNSの世界で結んでいきたいと願っております。

『行基菩薩ゆかりの寺院』情報提供のお願い

行基さん全国ゆかりの地ページにお示しするリストは、「行基菩薩千二百五十年御遠忌法要」の折にとりまとめられた『行基菩薩ゆかりの寺院』の一覧表をもとに、行基さん大感謝祭実行委員会のメンバーで住所などを分かる範囲で更新したものです。

なお、一覧表に入っているものの「行基さんとの御縁が確認できない」とのお申し出を受けて削除した寺院が2カ所、リストには入っていないが「わが寺院は行基さんにゆかりがある」とのお申し出を受けて加えた寺院が50カ所以上あります。

上記のように、ここにお示しするものは、あくまでも現在までに頂いた情報で修正、加除したものであり、今後ともこの表をベースに修正・加除を繰り返しつつより正確なものにアップグレードしてまいります。

ぜひとも皆さまの情報を次のアドレス宛にお送りいただけると幸いです。

また毎年催している『行基さん大感謝祭』において実施している「お砂踏み道場」へのご参加を新たにご希望の寺院さまについては、下記アドレス宛にお申し出いただけると幸いです。

更には、ご希望に応じてゆかりの寺院さまとリンクを張ることも可能ですので、どうぞお申し出ください。

この他、行基さんとの繋がりに関する情報をお問い合わせページからお知らせ頂けると幸いです。必ず折り返して情報交換をさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

担当:宇野宏司、尾田榮章、神原広嵩:あいうえお順